組み立て中だいたい出来上がり

炎芸術への広告に続き、池西 剛「黄瀬戸展」の図録を作ることになった。この不景気真っ最中にかかわらず、何故?。やれよ、と背中を押す人がいた。池西さん然り、だがもっと別に誰かがいた気がする。先ず、作品を撮るためのボックス作り開始。ホームセンターで黒色のデコパネ数枚と木材を買い、非常に雑な設計図を手がかりに工作を始めるが、影の社長の冷ややかな目が気になる。


100216

その徳利は、画廊を始めた直後に大阪の画商から持ち込まれた安藤義茂の作品を初めて見たときと同じ高揚感を抱かせてくれ、個人的に買い集めようと思った。
が、画廊の仕事を始めてみると個人的に興味のあるものを手に入れる余裕など一切なく、まして安倍先生の作品も普段は拝見できる機会すらなかった。
ただ、幸運だったのは先生のアトリエが隣町にあり、時おり先生が画廊に立ち寄られ、先生と焼き物や絵画の話をする機会に恵まれたことだった。
画廊に展示している絵を熱心に眺め、気になる絵には必ずその作品の急所(短所長所を含め)を突くワンポイントの批評をされた。その指摘の仕方は駆け出し画商のぼくには大いに参考になった。


100209画廊の仕事とは何か?を書くことをしばし休んで、画廊と作家との関係が生まれた最初の出会いとなる安倍安人先生について少し触れてみよう。
20年以上前か、知人の紹介で安倍先生のアトリエを訪れたのが最初の出会い。広い庭の一部に母屋があり、それにつながる倉作りの離れがアトリエだった。

6畳くらいの板間の中央に囲炉裏があり壁際には古い家具がずらり。しっかりと時代のある李朝家具というのを後で先生に教えていただいた。
その家具類のなかでやや小ぶりな箪笥の上に一本の徳利があった。小さいわりにはデンと構えて座っており、なにかずいぶん古い焼き物だな~という印象を持った。
先生と通り一遍の挨拶を交わし、後は、自己紹介的に西条で画廊を始めたいきさつや扱っている画家の話しをしつつそっと先生の顔を窺う。
端整な顔立ちで鼻が高く、意志の強そうな鋭い目と口元。しかし笑顔には人懐こさが溢れている。
絵画中心の画廊ということでそれならばと先生がご自分の画家時代の経験を面白くかつ刺激的に話し始められる。語りも実ににこやかで僕の緊張もとけほっとする。
関わった画商や同期の画家(現在は大家)のことなど、リアリティじゅうぶんの話題は尽きることなく深夜近くまで及んだ。

話の弾みすぎで早午前様の時間。
知人と慌てて帰り支度をするが、例の徳利がどうしても気になり「先生、この徳利はよほど古いものですか?」と、意を決しておたずねする。
「いや、これはぼくが作ったものです」の答え。このとき、なぜか背中が一瞬ぞくっとする感覚が走り、反射的に「譲ってください」の言葉がでてしまう。
焼き物の知識もなく、まして古備前など見たこともない人間が魅入られてしまうほどの徳利を目の前にいるこの人が作っていたとは。
先生は少し考えられて、おもむろに「最初の出会いは大事だからよりいい作品を持ってもらいたいのでもう一本見ますか」といわれ、奥の間から別の一本の徳利を持って来られた。
深夜車を飛ばして帰り、寝ている家内を無理やり起こし、手に入れた徳利を「見ろ、見ろ」と見せたことが今なお鮮明に思い出され懐かしい。
出会いの徳利が現在までの先生とのつながりを強固に結んでいる。


画廊の仕事を始めて25年。初々しい気持ちにある種の崇高な気分が重なり、10年くらいは無我夢中で仕事に取り組んでいたと思う。
作家との話は常に芸術論先行。お客さんには生活に美術的なもの(絵を飾る)の大切さを熱っぽく語り、やっと買ってもらったときの喜びは格別だった。俗にいう芸術至上主義の真っ只中を走ってきたようなものだったかもしれない。
しかし、バブル崩壊後の美術界は画廊が今までやってきた手法では通じなくなった。
美術品の売買に関して言えば、オークションが主流の時代になり、アートフェアも盛ん。ネット販売もしかりで作品の露出の形態が明らかに変わり、画廊で作品を見なくてもインターネット上やオークションの図録で充分と言う人が増えた。
画廊のマインドも落ち、作家も画廊任せの展覧会では食べられなくなりやむなく自主販売に近い作品展を考えるようになった。悲しいことに双方がカルチャー化しているのだろうか。
自戒を込めて、今この時期だからこそ考えられる画廊本来の仕事とは何か?を少しつづってみよう。

100207
(この画像は本文の内容とは関係ありません)


090511

過日、美術愛好家のNさんが「骨董 古美術の愉しみ方」という本を持って来られた。
正確にいえばその本中で、仲畑貴志という日本を代表するコピーライターが述べている「骨董は楽しい。正しく言うと、つらい」という箇所をわざわざカラーコピーして一緒に持って来られていて、Nさん、これまさしくわたしの心情ですといわれる。

気に入った絵画や陶器を見てしまうと、後は、さぁ早く決めないと誰かに持っていかれるよ、と脅迫観念が芽生えてくるというのです。

この感覚、画廊としては有り難い限りですが実はNさんのような方はめずらしいのです。
4月に発刊されたばかりのこの本、骨董好きの方でなくてもおもしろいですよ。


090222

流は1923年、長崎で生まれる。その後はスケールが大きいというか、波乱万丈というか、とにかく痛快無比の人生を送ることになる。剣法、古武道を叩き込まれ、刀鍛冶に熱中し、戦時中はゼロ戦のパイロットを経験する。
石彫のきっかけは、北陸で、子を亡くした母親が供養のために作った石地蔵を立てようとするのを知ってからというが、その時にひらめいた石と人、人と自然を循環する愛惜のような感覚が後年までの作品に一貫しているように思う。


090208

仕事上、「流 政之」という彫刻家の名まえも当然知っており作品も何点かは見ていた。
特に高松市美のホールに設置されている「ナガレバチ」(高さ417㎝ ミカゲ石) は館を訪れるたびに見ていた(画像)。
が、今回、高松市美で開催された「流 政之」展を見て、流という作家に対する漠然と抱いていたイメージが完全に覆された。
その作家や作品についてあまり深くも知らず適当に判断してしまう職業的な傲慢さをつくづく反省したしだい。


ご遺族と友人の方々で安藤の作品が整理保存されるまでにはあと少し時が必要だったが、安藤家ではそのきっかけになる不思議な出来事があったという。

これは後日、親しくさせていただくことになったお孫さんの話です。

ある日、おじいちゃん(安藤)の位牌が壇から落ち、その後も落ちることが続き、それではと頼んでお祈りをしてもらったがやはり落ちるので、これはきっとおじいちゃんが何かを告げたいのではないだろうかと家族で相談し、それでは倉庫にしまってあるダンボール箱の中の作品をいちど見てみようと開けたところかなりの作品が痛んでいたので、ああこのことだったんだ。
おじいちゃんは心血を注いで描いた自分の絵が痛んでいることを知らせたかったのだ。
これは作品を預かる者としてたいへん申し訳ないことをしていたものだ、とそれから急遽作品の整理にかかったそうです。


安藤義茂 逝去とその後
画家が名声を得ると堕落する、という安藤の発想はいささか窮屈すぎるが、今日の画壇を見ると確かにそう考えざるを得ない事実は多々ある。

そもそも彼にとって絵を描くことや芸術品の創造は「無窮の道であり天へ通ずる道」なのであって、画才を手段に社会的名声や地位を得るのが目的ではなく完璧な芸術至上主義の立場でまとわりつく名声や地位のすべてを排除してしかるべきだったのだ。

昭和42年10月18日京都市上京区の自宅にて逝去。享年79歳。

百子の回想によれば、病床についても百子が枕元に座れば絵の話ばかりで、天井や襖に絵を描き重ねる幻想を追っていて病苦を感じていないようだったという。

没して2ヵ月後の12月、安藤義茂画集「刀画」(安藤百子編集)が発行される。
昭和46年6月、京都市美術館で安藤義茂遺作刀画展開催。
昭和55年11月、北九州市立美術館で安藤義茂展開催。

昭和59年にご遺族と神戸のバートンホールの館主の手で膨大な安藤作品の整理が行われ、11月、民間で初めての展覧会がギャラリーバートンで開催された。

当時、作品整理に携わった方の言によれば、生涯教師を続けた百子は安藤の絵を一点たりとも売らず段ボール箱にぎっしりと保存していて、数えると総点数は一万点くらいはあったが、そのうち三分の二は湿気によるカビで駄目になっていたという。 


1. Posted by Nabe 2008年12月30日 20:04
ほあぁ~~
こんな生涯だったのですか~。
絵のことばかり考えててぶれがなかったんですねえ。

書きためた絵のうち三分の二も
駄目になってたって
なんと残念なことでしょう。

2. Posted by 店主 2009年01月12日 17:16
はは~、年末にありがたいコメントをいただきながらコメントを見ていませんでした。すみません。

安藤義茂の作品が画廊のスタートに拍車をかけてくれたものですから、ぼくも彼の生涯を一気にかくつもりだったのですが、なかなか進みません。

駄目になった作品には相当の名品があったと思われます。悔しいですね。


北荘画廊で刀画を発表していらい安藤の身辺は慌しくなる。見知らぬ人から問い合わせを含めいろいろな手紙が届いたり、美術評論家は訪ねてくる、美術ジャーナリストの出入りは頻繁、各公募美術団体への入会勧誘も多くなる。
画家としての名声が高くなればなるほど交際範囲も広がり、絵を描く時間がなくなり、これは困ったことだと思い、次第に画壇から距離をおくようになった。

昭和15年頃から北荘画廊での初個展(24年)までの約十年間の沈黙は安藤の独創的な「刀画」を生み出す重要な期間だったが、今回は違った。

入会した第二紀会の作品出品も年に一度だけにして、会合も欠席し沈黙を護り続けたが、ついにすべてがわずらわしくなり外部との交渉を完全に絶ちアトリエにひっそりとこもり制作に打ち込むようになった。