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画家安藤義茂の評価はこの独創的な「刀画」によるところが多い。勿論基本的に描く力があってのことだが、鬼神のように描き込む彼の体質にもっとも合っていたのだろう。
空襲警報も無視、台所の薬缶を火達磨にするなど、異常なほど描き削りまた描くことに打ち込んでいたという。
描きためられた刀画の作品を中心に昭和24年4月画家伊原宇三郎の世話で東京、日本橋北荘画廊で個展を開催し、画壇にすさまじい反響を呼び一躍洋画壇の寵児になる。

7月には京都、丸物百貨店華畝会展で刀画の特別展観を催しまた好評を得る。
昭和25年3月、朝日新聞社主催第一回秀作美術展に「少女」(刀画)が選抜展示され,
つづいて第四回第二紀会に出品しグランプリ受賞。
昭和26年1月、第二回秀作美術展に「二人の少女」(刀画)が選抜展示され、第二紀会会員になる。
だが、画家安藤の名声を高めることになったこの三年間の美術界の激しい動きを、彼は自分が画道に精進するための障害になると痛感したのだった


Posted by R子 2008年12月09日 21:12
待ってました!
久しぶりに更新されましたね。楽しみにしてますよ!


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昭和18年、戦況が激しくなり油彩画を描くための材料が不足し、水彩画中心の制作になる中で独自の技法を発見する。
このくだりを長くなるが彼の文を引用する。
「一つ水彩にて、油彩画同様の効果を得んものと決心し、建築用塗料の胡粉、黄土、ベンガラ、花群青、洋藍といったものを選び、是を膠液で溶くこととした(中略)また或る時思い切って全面的に、削りを入れて見た。而したら以外な画面に逢遇した。版画の様な得たいの知れぬ、不思議なものが出来上がった。是に興味をもって、その後は盛んに全面的な削りに没頭した。(中略)而して悟ったことは、高く盛り上げることと、深く削ることは、結果に於いて同じである。(中略)而して刀で描く絵を会得し、これを自ら刀画と銘名して見た。」
たまたま発見した紙への彫刻。それからは刀画に魅入られ憑かれたように毎日制作する姿勢は恐ろしいほどだったという。紙を削るという作業から紙質にこだわりあらゆる紙を試し、四国の紙製造業者にわざわざ漉いてもらったりもしている。


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結局、「閑庭」は特選にならなかったが、この頃から和紙に興味を持ちあらゆる種類の和紙に花鳥や人物、猫までも描いた。面白くなり一日二十枚くらいは描いたという。
気分転換で趣味の魚採りに百子や弟子たちと伏見から淀の漁場へよく通い、そこでスケッチをすることもあった。
この時期、母校の美術学校からぜひ教授にという招請が熱心にあったが、二人で断っている。
この件に関しては、安藤自身ほんとうに少しも教授の椅子に関心は無かったのだろうか、百子の意向の方が強かったのではないだろうか?と凡夫の身で想像するのみです。


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百子にとって、安藤は世の中で唯一の人で喜んで命をも投げ出すことの出来る相手だった。
命を投げ出す覚悟であればいかなる苦難でも乗り越えられるだろうと思い、申し込みを受けることになるが、それでも、一家の生計の全てを自分に任せ、絵を描くことだけに専念する、という条件を出し、安藤もそれを受け入れやっと結婚が決まる。

百子は昼間は教師として勤め、家へ帰れば子どもの世話をし熱心に絵を描き、とにかくよく働いた。
安藤も朝から晩まで絵を描き続けるが、百子への絵の指導もより厳しいものになった。
このころ家に住み着いた野良猫を可愛がり猫の絵ばかり描き、帝展にも発表し猫の安藤で有名になる。
第三回文展に紫陽花の咲く庭で数匹の猫が遊ぶ80号大の絵を「閑庭」と題し出品し特選候補に上がる。


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百子は安藤が八幡市で教師をしていた頃弟子になり、毎年、夏と冬に京都から彼の元へ指導を受けに熱心に通い、崇敬と思慕の念を深めていた。
百子の彼の才能に対する思い入れはすさまじく心酔しきっていた。そのため彼を一流以上の画家にするためのあらゆる労は惜しまなかった。
ただ、安藤から結婚の申し込みがあったころの状況は百子から考えると躊躇せざるを得ないものだった。
収入不定で財産は無く、先妻の5人の子どもと未婚の弟妹二人、年老いた両親の存在などいざとなれば全てを抱え込む決意が必要だった。


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15年の教師生活に区切りをつけ、絵を描くことに専念するため朝鮮へ行く。というのも朝鮮の釜山で楽器商を営んでいた両親の生活にゆとりができかけていたからである。
一男一女が生まれ5人家族になる。父が作ってくれた特別天井の高い家で主に鮮人市場を中心にした大作の絵を描き帝展に初出品し初入選する。入選を機に釜山の新聞は書きたて一躍大家にまつりあげられが、極力来訪者を断り絵に専念する。
画家としてやっと自立の目途がついたとき、妻の富美子が京城の病院で5人の子どもを残し病死する。昭和9年3月のことである。

昭和10年3月京都市に移住し、4月横山百子と結婚する。


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中学校教師の安月給で妹の学資を見るのは、想像以上にたいへんなことで、いくら生活をきりつめても足りなく、この時代は人として最低の生活を送っていたようだ。
しかし、絵を描くことだけは続けていて、頼まれて描いた絵の謝礼が臨時に入ることもあった。
妹が女子大を卒業を卒業すると、大正6年4月、かねて婚約中の赤堀富美子と結婚し一男一女を得るが不幸にして二人とも夭折する。

新設の八幡中学校へ赴任。
ここで一男二女が生まれ、また二人の妹を引き取り、相変わらず苦難の生活だったが、絵を描くことは止めず弟子への指導も熱心で生涯に渡る深い師弟愛が結ばれることになる。

いかなる困窮生活の中でも絵を描くことを続けられたのは、描くことへのすさまじいばかりの執着心が彼の生きる力になりえたのだろう。


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美校卒業後、徳島中学で教鞭をとるが、一年後、小林万吾の招きで東京へ帰り美校の研究科へ入り、ここで伊原宇三郎を教え、以後深い親交が続くことになる。
大正二年11月、九州の八女中学校に赴任。ここから彼の苦難の路が始まる。豪勢をきわめた父の事業が失敗し、安藤家は没落の一歩手前で、両親は小さい弟妹を連れて朝鮮へ渡り、当時日本女子大学に在学していた次女の面倒を彼がみる事になったのである。


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松山中学を卒業。医学を志して上京し四谷で医院を開業していた叔父の処に下宿する。
当時、唯一の進学予備校だった大成学館へ通い、腕試しのつもりで東京美術学校を受験するがビリから二番目の成績で合格する。思い悩むが結局、郷里の両親の猛反対を押し切り美術学校に入学する。
当時の美術学校は夏休みまでは仮入学で一学期の成績が悪いと退学になるということで、かれは必死に勉強し9月には上から二番目の成績になっていた。
デッサンは岡田三郎助に指導され、師範科に移ってからは小林万吾に師弟以上の世話を受け親交を深くする。


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義茂は明治21年(1888年)12月20日愛媛県温泉郡善応寺村で九人兄妹の長男として生まれた。
自分の屋敷を何町部も歩かないと村の道にでられなかった、といわれるほどの家で育ち、松山中学へ入ってからは自転車で通学しているが、当時の自転車はたいへんなぜいたく品だった。
画家として傲岸不遜と間違われるほどのプライドはこのような出生の背景も影響しているのかもしれない。